死別したばかりの人へ

私は死別してもう数年が経っている。数年経てば悲しみが去り、死別の苦しみを乗り越えているんじゃないかと思う人がいるかもしれない。そうであってほしいと思う人がいるかもしれない。何年もこんなどん底の気持ちのままで生きていけないと思っているだろう。

まさか死別して結構な年月が経っても、大泣きする日があり、号泣する日があり、心にグッと刃を刺されたような痛み、悲しみ、虚しさ、空虚さを覚える瞬間が今でもある、と知ったらどう思うだろうか?

私たちは死別の苦しみから逃れることはできない。乗り越えることなんてできないのだ、と私は実感している。

たとえ、恋人ができたとしても、再婚したとしても、子供達と周りの人たちとの関係やいろんなことが大方うまくいっていたとしても、私はずっと夫を恋しく思い、失った悲しさを自分の中に持ち続けるのだ。

愛する人がいないのに、持って行きどころのない愛。それが死別の悲しみかと思う。

でも、言えることは、その悲しみは形を変えるということだ。大きい日もあるし、小さい日もある。柔らかく愛しい日もあるし、強く鋭い日もある。

そして、だけど、日々は残酷で、私を成長させる。いやが応にもだ。自分の気持ちに敏感になり、悲しみと少しずつ自分なりに向かい合えるように、いつか、きっとなる。時間やプロセスはそれぞれだろうけど。

夫が生きていた頃、私は1、2週間先のことまでプランして、全ての準備が頭の中、もしくは実際に仕上がっている状態だった。子供が3人になってからは、むこう3日のことを考えるのに必死だった時期もあるけれど、だいたいうまくスケジュールをこなせていけることが多かった。

死別して2年くらいまでは、明日のことまで考えることができなかった。大きな予定(弁護士に会う約束とか子供の病院の予約とか)はちゃんと頭に入れるようにしていたけど、自分の予定、子供達の幼稚園や学校のことなどは、本当に考えられなかった。向こう2時間くらいを目標に生きる日々だった。とりあえず、その数時間過ごそう、生きよう、という日々。そして、だんだんと、明日のこと、明後日のことまでプランする余裕ができてきたように覚えている。

英語では one day at a time、とりあえず1日を頑張って過ごそう、みたいに励まされることが多いが、死別した時に one minute at a time、本当に目の前の少しの時間、わずか1分をとりあえず乗り越えよう、というように励まされることが多かったのを覚えている。

全てを投げ出したくなる瞬間があると思う。もう逃げてしまいたい、終えてしまいたいと思う日があると思う。でも、目の前の少しの時間を踏ん張って過ごそう。その繰り返しでいいのだと思う。大きなことを成すことができなくても、夢が変わっても、愛する人がそばになくても、瞬間瞬間を過ごし、次の日のことだけを考えて、なんとか1日過ごせれば、そういう日々が続けば、いつか、自分の死別の悲しみと向き合い、共存できると思える日がくると思う。

偉そうにアドバイスしていると聞こえたら申し訳ないけれど、そういう意図はないけれど、なぜかこういうことを書きたくなった。月曜は色々週末のことを思い、私は割と落ちる。

夫の写真をどう飾るか

夫が亡くなった時、お葬式のパンフレット、と言うかなんて言うんだろう?これって。お葬式に来てくれた人に、式の内容、そして賛美歌の歌詞を書いたパンフレットのような小冊子を配ったのだが、その表紙のために使う夫の写真選びに随分時間をかけた。(夫の死後のことは以前にも書いたが、クリスマスがあったり、解剖があったりして、夫の遺体は長いこと冷凍庫に入れられていたので、お葬式まで2週間以上の時間があったのだ)

今考えたら、あまりのショックでおかしかったのかもしれないとおもう。不思議な精神状態。コンピューターに収まっている数千枚の写真を見返して、夫が一番よく写っているいい写真を必死で探した。涙することもなく、義務感のような責任感のような思いで、まるで仕事のように一番いい写真を探した。イギリスの家ではコンピューターはダイニングテーブルの隣にあった。私が必死で写真を探している様子を、滞在していた義理の両親と義理の弟はどんな思いで眺めていたんだろう?

お葬式のパンフレットには、夫が笑顔で写っている亡くなる1年ほど前に撮った写真を選んだ。明るすぎるほどの笑顔だ。

そして、後日、よく着ていたジーンズとセーターで写った、夫が一人笑顔で立っている写真を数枚印刷して、同じ黒の写真たてに入れた。そして、我が家に一つ、義理の両親の家に一つ、義理の弟たちにもそれぞれ一つずつあげた。皆、リビングやキッチンなど、毎日目の入るところに飾ってくれている。我が家には、その写真以外にも、子供達との写真、私との2ショットなど、他にも写真がまだまだ飾られている。以前のブログでも書いたが、自分の指の結婚指輪を見るのが辛くて、指が苦しくて、いつか外してしまったときのような気持ちを最近感じる。夫の写真が多すぎるかなとも思い始める。黒の写真たての一つだけを残して、他の写真はだんだん収納してしまうべきかな、とも思う。でも子供たちが悲しむかな、とも思う。だけど、当時のまだ小さな子供達、若くて幸せいっぱいの私の笑顔、それを見るのが辛いのも正直な気持ちだ。

私の心はアップダウンが激しい。写真を穏やかに見れる時もあれば、苦しくてどんと凹む日もある。もう毎日は泣かないけど、泣くときはお風呂でギャンギャン泣くとスッキリする、ということも体で覚えてしまった。

さぁ、写真、これからどうしようかな。増えたりして。笑

いや、増やすことは、もうないな。やっぱり一枚だけにしようかな。子供たちの部屋にそれぞれあげようかな。

悩む。