絶対に言えない4人目への当初の思い

平成も終わる今日、絶対に言えないことを書いてみよう。

4人目の妊娠が分かった時私と夫はパニックと悲しさで泣いた。本当に泣いたのだ。欲しくなかった、4人目。3人の子供達で十分だった。

夫はすぐにパイプカットした。5人目なんて無理すぎる。

4人目を授かったことを受け入れ、検診も夫婦で行き、妊娠中期になって夫が急死した。

ぜーったいに口外できないことだけど、夫の死後、お腹の赤ちゃんが健康で、最愛のまだ40代になったばかりの夫が死んでしまったことを恨んだ。一瞬だけど、反対ならいいのに、という恐ろしい思いも浮かんだ。

この子の出産については数週間前に書いた。とても神秘的なお産だった。

4人目は生まれた時から夫にそっくりだ。大きくて強くてかしこい。この子のおかげで私たち残された家族の仲が強まっている。

4人それぞれ個性的で愛おしい。子どもたちを通して毎日夫を想う。

歯を抜いた。撃沈

もともと歯は弱かった。4回の妊娠と死別のストレスもあったのだろう。

ずっと抱えていた爆弾だった歯の痛みが凄く、かけこんだ歯科医にあっという間に抜歯されてしまった。ドイツに来て数ヶ月。評判も聞かずに、あまりの痛さに駆け込んだ近所の歯医者だ。ヤブだったかもしれない。

まだ30代なのに歯を失った。すごい落ち込みだ。10歳近く年上の夫も亡くなる数年前に同じ奥歯を抜歯した。夫も落ち込み、わたしは軽く笑った。歯が一本なくても大丈夫よ、と。

私は酷い妻だっただろうか。

夫を失って歯を失って想像する夫のきもち。

その後インプラントかブリッジで悩み、怖がりの私はブリッジを選んだ。色々聞きまくって、とてもいい歯医者に転院した。

反対側奥歯も爆弾らしい。いつか同じく抜歯だろう。

ストレスや疲れも良くないらしいが、わたしの生活、ストレスと疲れだらけじゃないか。

義父母に嫉妬 両親に嫉妬

義父母の車に乗った。義父が運転し、助手席には義母。私は下の二人の子供に挟まれて後部座席の真ん中だ。

義父は片手でハンドルを操作し、空いた手を義母の太ももにおいて運転する。いやらしくはない、ごく当たり前のように置かれたその手。

義父母にまで嫉妬するなんて私はおかしいのだろうか?

実家の両親とメールやラインでやりとりする。「今日はお父さんと食事に行くの」という当たり前の普通の母からのメッセージ。

これにも嫉妬する。

私の太ももに手を置いてくれた最愛の夫はいない。私は夫と食事に行けない。いつも子供に挟まれて、私は「ママ」であるだけだ。

夫が恋しい。毎日起こったことを聞いてほしい。一緒にご飯が食べたい。手を繋いで眠りたい。私はずっと自分のベッド、夫と毎晩眠ったこのベッドで眠ることができない。下の二人の子供のベッドに交互に潜り込んで眠っている。

義両親や両親にまで嫉妬するなんて、私はおかしいのだろうか?誰にも言えずに、ここに書き込む。街行く人を見れば、「あぁあの人にも家に帰れば待っているパートナーがいるんだろうな」と想像して落ち込む。

夫が恋しい。夫は帰ってこない。じゃあ新しい他の人を私は求めているのだろうか?それすら分からない。

イギリスからドイツへ引っ越し 学校編 

ドイツ人の夫が12月に急死した。その後、私は春に4人目の子供を出産した。色々迷っものの、夏に長女が7年間通ったイギリスの小学校を卒業するタイミングでドイツに引っ越すことに決めた。夏休みの時点で、子供達は11歳。7歳。5歳。そして0歳。今回は、引越しにあたっての大きな心配、子供達の学校についてまとめたいと思う。

子供たちのドイツ語はほぼゼロ状態。簡単な挨拶が出来る程度だった。一番心配したのは長女の学校だ。というのも、ドイツは10歳、11歳の時点の学力で、大きく分けて3種類のレベルの学校に振り分けられてしまい、大学に行けるか行けないかという大きな道がある程度決められてしまうからだ。ドイツ語が不足しているという理由だけで、長女の将来の選択の幅が狭まってしまうのはかわいそうすぎる。

その問題が実はあっさり解決した。

まだ4人目を出産前の、前に書いた泥棒事件があった頃に話は遡る。泥棒が入った翌々日に私たちは1週間の休暇をドイツの義両親のもとで過ごした。夫がいないのに、ドイツに行くなんて初めてのことだったが、夫がいなくなってから、義理の家族親戚との絆が深まったのも確かだった。義理の両親の英語はほぼ皆無に等しいので、英語のできる義理の兄弟が休みを取って滞在してくれた。私が引越しを考えていること、でも、長女の学校問題が気がかりであることを伝えると、あっさりと、「じゃあ電話して聞いてみよう」と、街の大きな高等学校に電話をしてくれた。10歳か11歳から8年間通う大学に行けるコースのギムナシウムという種類の学校だ。義理の兄弟が電話で簡単に我が家の事情を説明すると、「明日来ませんか?」とあっさり言われた。なんと偶然にも、この週に秋からの新学年の申し込みを受け付けているというのだ!

翌日、私は重たいお腹を抱えて、長女と義理の兄弟と一緒に街の学校まで出向いた。受付の人が、すぐに長女の名前を呼んでくれて、なんとも親切な応対をしてくれた。英語のできる校長先生と話す機会もあたえられた。

夫がわずか2ヶ月前に急死したこと、子供達3人、そしてお腹の子供を抱えて、義理の家族を頼って、ドイツに引越そうかと考えていること、他の子供はまだ小さいのでともかく、長女がドイツ語で苦労するのではないか?ドイツ語のせいで学力を低く見られて、将来の選択の幅が狭まるのではないか、というような不安を打ち明けた。

校長先生は、なんとも優しく、この学校は、海外からの短期滞在者の子供を多く受け入れて来て、外国語としてのドイツ語クラスを授業と並行して受けることができること、2年も経てば、子供達は必ずドイツ語を習得できることを、彼のこれまでの経験から語ってくれた。長女は優しい対応のこの校長先生と受付の人にすっかり安心したようだ。「この学校に通ってみたい」と言ったのだ!

大きな問題が解決した。ドイツ語ができなくても、高等教育を受けられる。もちろん、その後学力がついていかなければ、ドイツは落第や転校が普通だが、とにかく、長女には大きなチャンスが与えられたのだ。

他の子供たちの小学校と幼稚園は家が決まらなければ申し込めないというので、まずは、長女の学校から通える範囲で家を探すことになった。

今、実は子供達の春休み中で、どうも思うように時間がとれず、更新が滞っていたけど、次はドイツの引越し、家について、書いてみたいと思っている。

ドイツでお墓を作る その3

私は墓石にこだわりたかった。やっぱりずーっと残るものだし、ここはお金をかけたいとおもった。だから、墓石は値段のランクを見ずに、とにかく自分が一番気に入ったものを選んだ。それが強さや耐久性でも優れていたので結果的にも満足なのだが、濃く少し光沢のある黒い墓石だ。

墓石に刻む名前のフォントも選んで、生年月日と没日を記すことにした。墓石会社の人が、「お子さんに名前を書いてもらって、それをそのまま墓石に刻む人もいますよ」と提案されたが、それは、ちょっとプライベートすぎる、というかそれは嫌だったので、ごく普通の綺麗なフォントを選んだ。それから、デザインだ。ドイツのお墓は本当に自由だ。私は十字架をモチーフにモダンでシンプルなデザインに決めた。義妹が一緒に付き添ってくれた。何もアイデアを言うことはなかったが、一緒にいてくれてありがたかった。

骨壷は、飛行機で運ばれた。危惧していたが、私は飛ぶ必要はなかった。自分の膝の上に骨壷を乗せて飛行機に乗るのを想像して、それはきつすぎると思っていたのでホッとした。イギリスの葬儀会社とドイツの葬儀会社がやりとりして、特別な書類が用意され、骨壷は、荷物だけど荷物扱いされず、特別に飛行機に乗せられたらしい。ドイツの空港ではスタッフから直接骨壷が手渡しされることになっていた。私は精神的にも無理で、義理の弟が受け取って、ドイツの葬儀会社まで運んでくれた。

骨壷が届き、お墓の場所も決まったので、骨壷をお墓に入れる式をすることになった。通常ではお葬式に当たる。もう夫がなくなって10ヶ月近く経っていた。私たちが新しくドイツで通い始めた教会の牧師さんとアレンジして、簡素だけどアットホームな式にしようと思った。上の子供たち3人は学校に行っている時間を選んで、その場に呼ばなかった。もうお葬式は10ヶ月前にイギリスで終わっていてお別れしていたし、骨壷を見せて、お墓に入るところを見せて、また悲しい思いをさせる必要はないだろうと思ったからだ。まだ新生児の末っ子だけを連れ、義理の家族と夫の友達と10人ちょっとの式だった。

ちょっとしたハプニングがあって、誤解があって、牧師の到着が30分近く遅れた。私はなんとも思わなかったが、義母はこれに内心相当立腹していたらしい。あとで聞いた。牧師と葬儀会社の人が前に立ち、私たちの前を歩き、夫の墓地までみんなで歩く。私は久しぶりにみんなの前で朝から号泣した。久しぶりの夫は骨壷に入ってあんなに小さい。

お墓の前で牧師の話があり、それにも泣き、そして、葬儀会社の人が、骨壷をお墓に入れた。その入れ方がなぜか乱暴に見え、そして、骨壷が斜めに入ったように私には思えた。私たちは、そのあと、骨壷の上に白いバラを一本ずつ入れることになっていて、一番最初が私だったが、その骨壷がまっすぐじゃないことが悲しくて、しゃがんでまっすぐにしようと思った。穴は思った以上に深くて、骨壷も重かったのか届かず、すぐに気づいた義理の弟がまっすぐに直してくれた。号泣が止まらない。

なのに、ふと空を見ると虹が出ていた。信じられない。本当に夫が私に寄り添っているような気がした。

後日、墓石が綺麗に建てられ、お墓が完成し、キャンドルを灯すケース、植え込みやお花も綺麗になってから、子供達全員を初めてお墓に連れて行った。何百もある大きなこの墓地で「パパのお墓が一番かっこいい」と子供達が言ってくれた。

私は週に最低2回はお墓を訪れ、キャンドルを灯し、お花を生けた。お墓が綺麗になったら心が落ち着いた。お墓、かっこいいでしょう?私頑張っているでしょう?なんで自分だけいっちゃうの?私こんなに寂しいよ。子供たちともっといたかったよね。ドイツにも一緒に住みたかったよね。 いっぱい心の中で夫に語りかけた。お墓ができる前も話しかけていたけど、綺麗なお墓を目の前にすると少し心が落ち着いた。

お墓を作ってよかった。

あ。ドイツ、というかこの街のお墓の権利は30年ごとに更新らしい。30年後お金を払わなければ、墓石も取り除かれて他の人のお墓になってしまうのだ!ちょっとびっくりです。

ドイツでお墓を作る その2

ドイツでお墓を作ろうと決めた。ドイツの墓地はまるで庭園のように綺麗に整備されている。街には墓地がいくつかあるが、中でも一番街中の人気の墓地に夫のお墓を作りたいと思った。

ドイツのシステムはちょっと変わっていて。住民届けを出す時に、宗教を記入しなければいけない。もちろん無宗教ならそれはそれでいい。私はプロテスタントのクリスチャンなので、そのように記入してある。そうすると、自動的に教会税が差し引かれて教会は潤う。献金に頼るだけではなく、合理的にお金がやり取りされるのだ。とにかく、その教会税を払っていなければ、教会でお葬式や結婚式をすることもできないというので、念のためにクリスチャンとして登録している人が大多数で、教会は潤うのだ。私はこれについては反対派だが、まぁここで論議しても仕方ない。

とにかく、教会税を払っていなければ、教会所有の墓地も買うことができない。そして、私が希望した一番人気の墓地は、教会所有だった。夫はクリスチャンだったが、ドイツを離れてかなりの年数が経っていたので、教会税を払っていない。これを理由に、この墓地から一旦断られた。

ドイツのいいところは、押せば通る、というか、言ったもの勝ちのところがあることだ。夫はイギリスで教会に通っていたことをイギリスの教会の牧師に手紙で証明してもらい、墓地に持っていったら、オッケーになった。こういう例外的なことがよく起こるのがドイツの特徴だ。

ということで、墓地は決まった。2人入れるサイズ、私も将来はここに入ろうと、スタンダードのサイズを選んだ。

こんな悲しいことをまた私は決めていかなくてはいけない。義家族が全てを私の希望通りに任せてくれたのはありがたかったが、墓石も、デザインも、どのようなフォントで名前を刻むのかも、全部私が決めるのだ。

墓石屋を見て回り、お墓を歩いて、いろいろ考えた。どんなお墓にして、どのように骨壷がお墓に入れられたかは、また次にまとめようとおもう。

ドイツでお墓を作る その1

ドイツの夫の故郷に引っ越すことを決め、長女がイギリスの小学校を卒業した後の夏休みに私たちは無事ドイツに引っ越した。この辺のことはまたあとで書くことにして、まずはお墓事情についてまとめたいと思う。

夫はクリスマス直前に急死し、病院に数日置かれ、解剖後、葬儀会社の冷蔵庫に保管された。解剖があったり、年末年始があったりで、結局お葬式は1月に入ってからだった。お葬式まで私はいつでも葬儀会社に行って、彼の顔を見ることができると言われたが、私は、子供達と病院の遺体安置室でお別れをしたので、それ以後はもう見ていない。あの時の綺麗な笑ったような顔のまま覚えていたかった。

お葬式の時、夫は私が選んだ棺に入っていた。棺にもピンからキリまであって、真ん中の値段くらいで私と夫好みの色の木の棺を選んだ。夫の横たわる棺は教会の前に置かれ、綺麗なお花が飾られた。このお花も私が選んだ。夫の死後、この短期間の間だけでも、いったい私は一人でどれだけの決断をしただろう?

お葬式の間、アメリカの映画のように棺の蓋が開けられたりすることはなかった。式の後、棺が運び出され、火葬場に持っていかれた。私は火葬場に行くこともしなかった。そこまで心が強くなかった。

数日後、葬儀会社から連絡があり、私は骨壷を受け取った。私が選んだ骨壷に夫は収まっているのだ。重たかった。でも、イギリスではお骨を家に保管することはできず、お墓が決まるまで、それがたとえ何年かかっても、葬儀会社で保管されることになった。

ドイツにお墓を作る予定だと話すと、それは可能だが、車で運んだ方が、色々と書類的には簡単だと言われた。飛行機で骨壷を移動するには少し面倒だというのだ。でも、面倒でも可能は可能だというので、夫のいない今、私は新生児を抱えて子供4人もいて、ドイツからイギリスまでの車の往復は絶対に無理だと思ったので、飛行機で骨壷を運ぼうと決心した。

シンママになってできるようになったこと

夫がなくなって数週間後、自転車のライトの電池が切れた。初めてひとりで交換した。めちゃくちゃ簡単だった。

こんな簡単な事なのに、何も考えず当然のように夫に頼んでいた。夫の優しさに甘えていた。

電球の取り替え、庭の芝刈り、バーベキュー。シングルになって、できるようになった事が増えていく。大きなテントを持っていくキャンプは、さすがにもう行かないだろうけど。

片親だから、ママが外国人だから、躾がなっていない、マナーがなってない、と思われるのがイヤで、子育てにもこれまで以上に力が入っていく。私がしっかりしなくては、と。

こうやって私はどんどん強くなっていく。外では笑顔を作り、話を適当に合わせ、子供の前では涙を見せないようにして。

一番泣ける場所はお風呂だ。シャワーを浴びながら思いきり号泣する。消えてしまいたい。もう私は終わってしまってもいいと日に何度も思う。でも、新生児の末っ子が産まれたばかり。私には4人を育てる責任がある。いや、私がいなくても、親戚一同みんなで面倒見てくれるんじゃないかな、と思う。でも、私まで失うことは子供たちにとってあまりにも残酷だ。こんな風にとことん落ちることを考える瞬間を何度もむかえながら懸命に生きる日々。

こんなに落ちているのに、出来るようになったことは増えていく。哀しい矛盾。


引越しを決める

話が少し前後して申し訳ないが、ドイツに引っ越すことを決めたことを書いておこうと思う。これまでの日記にも書いたが、10年以上暮らし、友達はいっぱいいるけれど、外国人として夫のいないイギリスに残るのか?はたまた、言葉はできないけど、夫の家族や友達のいるドイツに引っ越すべきか?で私の心は揺れていた。

この時点で、不思議なことに、私にも子供達にも日本に行くという選択はなかった。毎年春か夏には日本に帰省していて、私の母親も時々イギリスに来ていて、子供達の日本語は会話はオッケー、私の両親との関係も良好だった。ドイツの方はといえば、一年に一度数日帰省する程度で、子供達のドイツ語はほぼゼロ、私も全くできない状態で、ドイツの家族とは片言のドイツ語と英語でなんとか取り繕っている状態だった。それなのに、日本に行くという選択はなかった。いや、それだから、なかったのかもしれない。

日本の家族や友達と私と子供達の関係は変わらない。これからもずっと。でも、ドイツの家族はどうだろう。夫がいない今、日本やイギリスに住んだら、夫の家族との関係はますます希薄になるだろう。夫がいないからこそ、夫の家族の近くにいたいと思った。夫の影響や存在をずっと感じていたいと思った。そして、生まれてくる赤ちゃんのためにも、父親を全く知らないで生まれてくる子供のためにも、パパの存在をドイツの家族から感じてもらいたいと思った。

お墓の場所も決めなくてはいけない。イギリスにしたら、ドイツの夫の家族や友達はなかなか訪れることができないだろう。ドイツの故郷にするべきだろう。それなら、私たちもお墓の近くにいたいと思った。

イギリスに残るのか、ドイツか日本に引っ越すのかについて、一から考えてみた。

イギリスに残ると、私と子供達の日常生活の変化はそれほどない。友達もいるし、ネットワークもあるし、学校を変わる必要もない。このまま同じ家に住んで、会社からの遺族年金とシングルマザーの福祉で生活できる。日本にもドイツにも今まで同様帰省できるだろう。でも、ドイツの家族との関係が薄くなるだろう。

ドイツに引っ越すとなると、子供の学校の心配、言葉の問題、家探しなどなど不安面がたくさんある。だけど、夫の家族や友達がいる。ドイツはイギリスと同様、子供達の学校はすべて無料、イギリスと違って大学までドイツは無料だ。経済的にも、問題なく生活できるだろう。

日本に引っ越すと、子供達は漢字を学ばなければならない。もう10歳だった長女にはちょっと酷かなと思った。学費もかかるし、私も親の力を借りてフルで働くことになるだろう。そして、ドイツやイギリスに遊びに行くことは、きっと年に1回は無理だろう。何よりも、ハーフの子供たち4人をシングルマザーとして日本で育てていく勇気がなかった。夫の存在が全くなくなってしまうことが怖かった。

死別などの大きな経験をして、心の中が普通の状態ではない時に大きな決断をするべきではない、と色々な人に言われたし、本でも読んだ。少なくとも一年は環境を変えるべきではないと。

でも、私は、死別して辛いからこそ、もっと辛いこと、もっと大変なこと、もっとチャレンジなことを自分に課すかのように、ドイツへの引越しに心が動いていた。

そんな時に起こった、先日の日記にも書いた、泥棒事件。そして、その直後に遊びに行ったドイツでの体験。(長女の学校問題があっさり解決したのだ。それについては後日書く)

数ヶ月すれば、長女がイギリスの小学校を卒業する。そのタイミングでドイツに引っ越そうと決めた。とりあえず2年は住んでみよう。辛くても頑張ろう。そして、2年経ってダメだったら、イギリスに戻ろう。イギリスの持ち家は残しておこう。そういう逃げ道を作って、私と子供達はドイツ移住に向けて準備を始めた。夫が死別してわずか3ヶ月で心の中は決まった。

夫が天国で信じられないと笑っているような気がした。夫を驚かせてやろう。誇りに思ってもらおうと思った。

嫉妬

週末は特に最悪だ。どこに行っても家族連れやカップルが目につく。見ないようにしても、聞こえないふりをしても、気づいてしまう。カップルの何気ない目配せ、買い物袋をたくさん持つパパ、どこかの子どもが「パパ〜」と呼ぶ声。そして、ここは外国。至るところで軽いキスが交わされ、パーティーに呼ばれれば夫婦同伴。

まだドイツへの引っ越しを決めた事も子供たちの学校の色々も書いてないけれど、それはまた今後にしよう。

ドイツに来て1年後、親友のご主人の50歳のお誕生日パーティーに招待された。もちろん一人で行った。親友は優しく、周りの友だちも気をつかってくれたのだろう、私は一人でぼーっとなることはなく、常に誰かとおしゃべりできた。それでも、私は心の中で泣いていた。

夫は50になれなかった。私はもう夫の誕生日を祝えない。私は愛する人の横に立ってパーティーを楽しむことは出来ない。「奥さん」じゃあない。

その日私は新しい服を着ていた。夫の知らない服、靴、バッグ。夫の知らない物が増えるたび、さびしくなった。でも買い物をすることでのささやかな僅かな喜びは私に必要なものだった。

日本人友達が現地のご主人と軽くキスをするのを見てしまった。私はその後3週間は落ち込んだ。知ってる人のこういう場面は特に凹む。

嫉妬は深く心を疲れさせる。

死別して優しい人間になれると思っていたけど、私の心の奥はまだ醜いものが沢山ある。