4人目の出産は水中出産 後編

予定日を過ぎた頃、破水してお産が始まった。病院についた時点で、水中出産できる部屋が2つとも空いていて、私が使えることになった。ベッドや、普通のお風呂やシャワー、トイレも付いている完全個室だ。

付き添いを申し出てくれたイギリス人の女友達とおしゃべりする余裕もあり、自分の好きな音楽をかけて、お産が進むのを待つ感じだった。定期的に助産婦さんが様子を見にきた。病院のネグリジェのようなパジャマを着て、陣痛を和らげるために、お風呂ではなく、出産プールにお湯が入れられ、私はパジャマを着たまま、プールに入った。プールといっても、普通の浴槽の3、4倍くらいの大きさで、中に座れるような部分があったり、天井から紐が下げられて、プールに入ったままで、その紐を引っ張れるようになっていたりした。陣痛の時に苦しくなったら引っ張って持つための紐だ。日本と違って、出産前に浣腸されたりしない。これまでのお産でも、少し便が出たのを自分でわかっていたので、プールではどうなるんだろうな?と思った。そして、助産婦さんは一人?二人?一緒に入ってくれるのかな?と思った。

あれよあれよという間に、お産は進み、私は女友達の腕を何度も掴み、陣痛に耐えた。いざとなったら恥ずかしいし、直前で彼女には外に出てもらおうと思っていたのに、やっぱり不安だったし、結局最後まで一緒にいてもらうことになり、私は彼女の腕に爪まで立てた。陣痛の時は、アグレッシブになってしまうものだ。

助産婦さんは、一向に水に入る気配がない。私が「いつ入ってくれるのですか?」と聞いたら「え?私たちは入らないわよ。感染症のリスクもあるしね」とあっさり言われ、私の勉強不足を反省した。でも、確か、日本の出産雑誌には、プールに一緒に水着で入ってくれる助産婦さんの写真があったような。

二人の助産婦さんと、私の友達が、プールの周りで私の様子を伺い、私は一人水の中で座ったり動いたりして陣痛に耐える。子宮口の具合を見るために、助産婦さんが長い柄のついた鏡を入れて、そこにもう一つの鏡を向かい合わせて、外から鏡ごしに判断する。こんなんで、ちゃんとしたタイミングでいきめるように指示が出るのかな?と不安になる。そして、びっくり。巨大すくい網が、無言でさっと登場して、水の中に入れられ、さっと処理された。便だ。やっぱり仕方ない。おかしさと恥ずかしさが勿論あったが、さすがは私も4人目の出産だ。面白いと思う余裕さえあった。そのあと、何度かすくい網が登場し、いよいよお産も正念場。いきむように指示が与えられた。

友達は私の腕を持ち、感動ですでに涙を浮かべている。私は、こんな感じじゃ、絶対に会陰切開はされないし、どうなるんだろうなぁと思いつつ、必死に指示通りいきんだ。

そして、最後の指示で、出てきた!私の4人目の子供だ。助産婦さんはプールの外から手を入れ赤ちゃんをゆっくり取り出した。私は座ったまま、へその緒が繋がったままの自分の赤ちゃんと向き合った。ほんの数秒のはずだが、水の中で、目をつぶって、まだ泣かない赤ちゃんと対面したのは本当に本当に神秘的だった。

子宮からプールにでても、水の中ということで、自分が生まれたことに気づいてないのだという。そして、ほんの数秒であっという間に助産婦さんから私に赤ちゃんが託され、私が赤ちゃんに向き合う形で、水の中から水の外へ引き出した。その瞬間、まだ青っぽかった赤ちゃんが血の気を帯びて、泣き出した!

この水の中での対面から、私が水の外に引き上げるまでの、10秒にも満たないこの時間のことは一生忘れることのない、とても神秘的で特別な体験だった。水中出産を選んで良かったと心から思った。

4人目の子供は、見るからに大きかった。強く生まれてきてくれてありがとう。

まだ20週にも満たないうちに、父親が急死、ずっと私のストレスを感じて大きくなってきたはずなのに、なんと健やかな子なのだろう。父親を全く知らずに生きていく、この子を十分に愛していこう。この子が成人するまで、私は元気でいよう。

私たち家族は、パパと私と子供達3人の5人家族から、パパがいない4人家族になって、またこの子供の誕生によって、ママと子供達4人の5人家族になった。

4人目の出産は水中出産 前編

色々ありながらも月日は経ち、臨月になった。日本から母親が手伝いにきてくれ、出産準備にとりかかった。イギリスでの出産も4回目だ。イギリスの医療は国営で全て無料。出産も無料だが、そこは外国、日本とはいろいろなことが異なるらしい。私はイギリスでしか子供を産んでないので、いい意味でも悪い意味でも比べられないのだが、とりあえず私のこれまでの出産を思い出してみる。

一人目:初めてのことで不安で、陣痛が10分間隔になった時点で即病院へ。でも、まだ子宮口がそんなに開いてなく、先が長そうだということで、病院内を散歩するように言われる。何時間も夫と院内を散歩し、陣痛に堪え、それでもお産は進まず、疲れのみがピークに。結局、お医者さんの勧めで、無痛分娩に切り替え。陣痛と疲労の中、麻酔の同意書にサイン。自分で最後はいきめるように8割くらいの麻酔をされた。麻酔が効いたら痛みはぐっと減ったが、会陰切開もされた。子供は元気で、夫が立ち会いへその緒を切ってくれた。イギリスの病院は、当時、帝王切開なら3泊くらい、そうでなければ1泊くらいで家に帰るのが普通だった。赤ちゃんがお医者さんに点検を受けて、ママがオムツ替えや母乳をあげることなどに慣れたら、家に帰されるのだ。その後は、助産婦さんと保健婦さんが毎日家に来てくれて、赤ちゃんの体重を量ったり、ママの相談に乗ったりしてくれるシステムだ。そんな中、私は、6人部屋で一番長く滞在した。3泊だ。毎朝看護婦さんが、「もう帰れそう?」と私に聞き、「いや、まだ自信がないです」と答えた。とにかく麻酔の後の身体の回復がきつくボロボロだった。6人部屋で6人のママと6人の赤ちゃんが同室だ。基本は出産直後からママがずっと赤ちゃんの世話をしなくてはいけないのだ。いつも音はするし、病院の部屋は落ち着けるものではなかった。食事も全く量が足らず、日本人の友達が毎日届けてくれる日本食がなかったら、ちゃんと母乳も出なかったかもしれない、と思うほどだった。それでも、私はまだ若く、色々不安で長く滞在したのだった。とはいっても3泊だけど。

二人目:正直一番記憶にないお産なのだが、陣痛がピークの時に「やっぱり無痛分娩にしたいです」と訴えたら、「もう遅すぎるわよ」と言われ、笑気麻酔(イギリスでは一般的、ガスを自分で吸う)だけで乗りきった。会陰切開はされなかったが、少し裂けた。やはり、夫が立ち会いへその緒を切ってくれた。2回目だけに夫が落ち着いていたのを覚えている。1泊して翌日には退院した。上の子供のことが心配だったし、家の方が落ち着けると思った。

三人目:経産婦だし、予定日より早まるとなぜか信じていたのに予定日を1週間超えても、全然出産の気配がなく、とにかく動くように言われた。散歩して、階段を上り下りして、公園でシーソーに乗ったりもした。結局10日遅れで出産となったのだが、一番小さい赤ちゃんで、とにかくお産が楽だった。痛み止めも麻酔も何も使わず、下が切れることもなく、出産後1時間もたてば、立って歩くことができるほどだった。結局24時間以内に退院した。一番楽なお産だった。やはり、夫が立会い、へその緒も切ってくれた。

そして今回の四人目の出産。夫はいない。もう四人目だし、三人目の出産はすごく楽だったし、私は一人でタクシーで行って一人で産んで来ようと思っていた。イギリスではバースプランといって、自分の希望する出産計画を書くのだが、その時にも、なるべく痛み止めや麻酔を使わずに立ち会いもなしで、と書いていた。が、その後、いろんな友達や友人に、「一人じゃ不安だろうし、誰かいたほうがいい」「もし私でよければ立ち会うよ」と言ってもらった。結局、イギリス人の友達に、私が希望するときまで一緒にいてもらうことをお願いして、そして、できれば、出産プールを使いたいと希望した。

イギリスは無料だが、陣痛を耐える部屋と出産の部屋は同じで、個室だ。お風呂も各部屋についていて、自分の好きなように部屋を使える。これまでの出産で、お風呂に入ると陣痛が和らぐことを実感していたので、できれば、そのまま水の中で産みたいかもしれないと思ったのだ。

私の街の病院には水中出産できる個室が2つあった。お産が始まった時点で、その部屋が空いていれば使えるということだった。

続きはまた後編で。

シングルマザーって

やっぱりアンバランスだ。パパとママがいて、子供がいる家族から、大人は私だけで子供がいっぱいの家族になってしまった。日本の両親、ドイツの義両親や、友達が相談に乗ってくれるとはいえ、何をするのも、最終決定は私の責任なのだ。

夜。子供が眠った後、喋る相手がいない。死別してからというもの、気軽に友達に電話したり誘ったりできなくなった。夜は旦那さまと団欒してるんだろうな、あ、友達には待ってくれる相手が家にいるんだなと思うだけで、孤独感が増す。

妊娠後期に入って、私は子供以外の大人と喋ることがない日もたまにあった。丸一日、子供以外と話してない。夫が恋しい。気が狂いそうだ。

夜は一人でベッドに入ることが出来なくなった。寂しさと孤独で眠たいのに寝付けない。夫のことを思い、泣いて、眠れない。結局、妊婦の大きな身体で、当時の末っ子5歳の娘と一緒に二段ベッドの下で寝る毎日だった。

寂しい。私はまだ30代半ば。抱きしめてもらいたいのに、夫はいない。私を一番愛してくれる人はもういない。私は誰の一番の存在でもない。

死別者の集まりに行ってみた

夫が亡くなった病院でカウンセリングや様々な死別者の集まりがあることを聞いた。私の周囲の友人には、配偶者を亡くした人はいなかったので、勇気を出して一つの集まりに行ってみた。

教会のホール、日本でいうと公民館のようなところで、平日の午前に月2回ほど行われている死別者の会だった。ボランティアで運営されていて、参加するのにお金はかからない。

妊娠後期に入った私が、その部屋に入ってみると、私は明らかに異質な存在だった。イギリスの死別者の会。平日の午前。まず参加者は20人もいなかった。そして、アジア人は私のみ。そして、どうみても明らかに私が最年少。ほとんどの人は、私の祖父母の年代じゃないか?と思うほどだった。次に若い人でも60手前くらいの人だった。

一応自己紹介で、夫が亡くなった状況と、自分の近況を喋った。

みんな同情してくれたけど、優しかったけど、その日、その時間、私は得るものがなかった。知らない人の前で自分の状況を喋ることが疲れた。こういうグループは向いてないかもな、と思った。

それとは別に、カウンセリングのような形で、週に1回イギリス人の女性が病院から派遣されて、私とおしゃべりに来てくれることになった。これは、助けになった。1時間ほどお茶を飲みながら、我が家のリビングで毎週彼女に近況報告して、涙する時間は癒しになった。

ある時、彼女が、同じ町に、私と同年代で、同じく妊婦で、最近未亡人になった女性がいるといった。そして、私はその人に会いたいか?と聞かれた。深く考えずに、「はい」と答えたが、その後、その彼女のことを聞くことはなかった。きっと、その彼女の方が、私には会いたくなかったのだろう。

同じ若年未亡人といっても、それぞれ状況が全然違う。

重い病気で、死ぬのが悲しいけど予想されていた場合、交通事故や我が家のような突然死の場合、そして、経済的な状況の差や、義理の家族や子供達との関係、死別前の夫婦の関係などなどによって、死別後の感情にも、向き合い方にも差が出てくる。

そして、グリーフ、喪失感は、人それぞれなのだ。一人一人違った形で、向き合うとてもプライベートなものだ。

私は必死で、死別者のブログや本を読み漁った。そして、自分自身も日記のようなものをつけ始めた。

死別して、孤独感を感じることが増えた。子供といても、友達と居ても、孤独だ。夫に心の中で話しかけるが、返事はない。玄関やリビングのドアが開くたびに、夫が帰ってくるような錯覚や幻想を見た。

夢だったらいいのに。こんな悪夢を背負って生きていくのは苦しすぎる。死別者の集まりに行っても孤独感は変わらなかった。

ルークペリーの死

若い頃、大好きだったドラマが「ビバリーヒルズ高校白書」「ビバリーヒルズ青春白書」だ。このドラマを何度も見て英語を勉強した。高校生とは思えない、キラキラしたアメリカのリッチな学生たちのドラマ。なかでもひときわ色っぽかったのが、ディランだろう。

そのディランを演じた役者、ルークペリーが53歳の若さで急死した。

https://www.bbc.com/news/entertainment-arts-47448666

私はソーシャルネットワークで、複数の「未亡人グループ」に入っている。その中の一つのグループで、一人のアメリカ人女性が「今日はもうネットを見たくない。ルークペリーが53歳の若さで亡くなったとみんな騒ぐけど、私の夫はそれよりも15歳も若く亡くなったの。53まで生きて欲しかった」とコメントした。

人の悲しさは比べられない。分かってはいるけれど、特に若くして配偶者を亡くしたら、襲いかかる悲しさと、理不尽さと、不公平さを感じて、心がとても敏感に、そして時として、みにくくなってしまう。

夫を亡くして以来、人の誕生日を祝うたびに心が痛くなる。夫の誕生日はもう来ないのに、こうやって、他の人は歳を重ね、お祝いできる。なんて世の中は不公平なんだろう。

こんな悲しいことが起こって、私は人の悲しさがわかる優しい人間になれるかもしれないと思ったこともあったけど、実際は、人を羨み、自分を可哀想に思うことの方が多い。傷つき、落ち込み、人を妬み、自分を憐れむ。そして、夫の無念さを思う。

ルークペリーにも子供が二人いたようだ。また、婚約者もいたという。(子供の母親とは別れている)残された家族の気持ちを思う。これから続く、長く暗いトンネル。いつか光が見えるのか?と思っても、なかなか見えない。

目の前の数時間、そして半日、そしてその日一日のことだけをなんとかこなしていくことしかできない。愛する人を失った後の喪失感は、相当なエネルギーを要する。私もまだまだその途中だ。そして、これはきっと一生続くのだろう。形を変えて、それさえも私の一部になって。

ルークペリーの人生と残してくれたたくさんの作品に感謝して、残されたご家族の気持ちを想いたい。

泥棒にやられた 後編

なんだか色々あってすぐに更新できなかったけど、続きです。

その夜は結局、夜中の1時近くまで来てくれた友達と話しこみ、ショックを分かち合った。続きや色々な片付け、保険会社への連絡などは翌日にすることにしてその日はなんとかおしまい。

下の子供二人は疲れてソファで寝てしまった。2階の寝室は足の踏み場もないほど荒らされていて寝れるような状態ではないので、私と長女はリビングにエアマットを使って、なんとか2時過ぎに就寝。

翌日は、警察チームが10人近く朝8時過ぎから来てくれて、指紋を探したり、色々なことが行われた。他の友達も来てくれて、6、7人で家の片付け、掃除を丸1日かかってやった。保険会社に電話して、家の鍵も変わることになった。

子供たちは友達の所に行って、私たちはひたすら家で作業。当初は翌日のドイツ行きをキャンセルしようかと思ったけど、別にそれもバカらしい気がして、行くことに決定。

そして奇跡が起こった!神様本当にありがとう!なんと私の一番欲しかったもの、婚約指輪が見つかったのだ。アイロン台の下にあったのを見つけたのは私。まるで天使が上から落としたみたいに、急に出てきたみたいに見つかった婚約指輪。嬉し泣きした。でも、探しても探しても、祈っても、夫の結婚指輪は見つからない。

警察によると、同じ手口でやっている、17歳から24歳くらいの男のグループだろうとのこと。証拠がなく、現行犯でないことから、なかなか逮捕にいかないそうだけど、捕まって欲しい。

とりあえず、盗られたものは、
夫の結婚指輪
私の真珠のピアス
私のブレスレット
現金は、長女の貯金箱から150ポンドくらい、夫のお財布から70ポンド、引き出しから日本円5万円、30ポンド、そして、今回はたまたま沢山あったユーロが800ユーロ!

現金は証明するのが難しいらしく、保険会社によって違うらしいけど、結局250ポンドしか戻ってこなかった。

夫の結婚指輪には、私の名前と結婚の日にちが刻まれている。警察は、地元の新聞にも記事を出すことを提案。名前や写真は無しでお願いしたけど、未亡人が夫の指輪を盗まれたので、どこかの店で目にしたら警察に知らせるように、という記事だ。他にも色々なツテを利用して探す事を約束してくれたが、結局出てこなかった。

そして、全てのドアの鍵が替わったのはその日の19時半過ぎだった。なんとか翌日はドイツへのホリデーに行けそうだ。

今回の旅行中は警察がパトロールを強化すると約束してくれたし、盗られてほしくないプライベートなもの、車の鍵も親友のおうちに預け、隣の家族には家の鍵を渡して、毎日カーテンの開閉や電気をつけたり消したりすることをお願いした。

それにしても、本当に参った。凹んだ。まだ夫が亡くなって2ヶ月ちょっと。家中に、お悔やみのカードが飾られていて、この家で誰かがなくなったばかりのことは、わかるはず。それなのに、こんなひどいことをする人がいる。悲しすぎる。私は一番大事な夫の形見になるはずだった結婚指輪を失ってしまったのだ。